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感情はどのようにして育つのか?①

 感情はどのようにして育つのか?

感情をコントロールすることは難しいことですが、学校生活の中でコントロールできないと不適応が生じてしまいます。感情を伴うイメージは、忘れないという特性を持っています。快・不快を感じる扁桃核で、ワクワクを感じることが大切になると言われています。「怒りをコントロールできない子の理解と援助 大河原美以著」などを基にして考えてみたいと思います。

 

1 感情とことば

私たち大人は子どもたちを「思いやりのある子」に育てたいと願っています。本校の保護者の皆様も同様の状況でした。そして子どもには「思いやりをもちなさい」「困っている人がいたら助けてあげなさい」「電車ではお年寄りに席をゆずりましょう」「人をいじめてはいけません」と教えます。しかしながら現在、教えたとおりに子どもが育たないと感じている方は多いのではないしょうか。最近の子どもたちにはこのようなことを教えていないのではないか、と心配されているようでもあります。だから、「きちんと教えるべきだ」という考えや主張が生まれます。現実には「人を殴ってはいけない」「すぐに怒ってはいけない」「やさしくしてあげなければいけない」「みんなと仲良くしなければいけない」といった、多くの「ベからず」が子どもたちにはシャワーのように毎日ふりそそいでいます。

一般に私たち今の親世代は、子どもを「ことば」で育てる傾向が強いように思います。「思いやりをもちなさい」と伝えると「思いやりが育つ」と考えがちです。しかし「ことば」で伝えれば伝わるものだと思っていることは「錯覚」であると言われています。たとえば、子どもに「机を運びなさい」と言えば、ほとんどの子どもが何をすればよいのかを理解することができます。ところが「思いやりをもちなさい」と言う場合は、友だちにやさしくしてあげようと思う子どももいれば、何をすればいいのかまったくわからない子どもや、先生が見ているところでだけ、どう振る舞えばいいのか理解している子どもなどもいて、その理解の状況は一律のものではないのです。

それはなぜでしょうか?「机」は具体的に実在する「物」です。「運ぶ」という動詞も、具体的な「行動」として現実に体験されています。つまり「机」「運ぶ」という「ことば」はともに「物」や「行動」 と一対一対応で結びついています。ところが、「思いやり」は抽象的なことばで、目に見えません。このように「感情」をあらわす「ことば」は、「物」をあらわす「ことば」と性質が異なるわけです。

「机」「鉛筆」「黒板」「先生」など物の名前は、その名前の「ことば」を使うことによって、他の人と共有のイメージをもつことを可能にします。「机」と聞けば「机」を思い浮かべることができるわけです。「ことば」には、このようにイメージを共有することを可能にするという機能があります。そして、それによって、人は他者とつながりをもつことが可能になります。「うれしい」「かなしい」「腹がたつ」「うらやましい」などといった感情をあらわす「ことば」の場合も同様です。「うれしい」という「ことば」を使うことによって、他の人と共有のイメージをもつことができれば、「ことば」を通して感情を共有することができ、他者とのつながりをもつことが可能になります。このように「ことば」によって感情を他者と共有できるようになるプロセスを「感情の社会化」といいます。「思いやり」という高度な感情が社会化されている子どもたちの集団においては、「思いやりをもちなさい」という「ことば」による指示も有効でしょう。しかし、そうではない状態にある場合、その「ことば」は意味をなさなくなってしまうわけです。

私たち大人は、基本的な感情をあらわす「ことば」をあたかも、アプリオリに(先天的に)知っていたかのように感じてしまいがちです。ですから、「思いやり」ということばとその感情が結びつかないということが、どういうことなのかを理解することは困難です。しかし、パソコンやインターネットに関する「新しい抽象的なことば」を例にして考えてみると、「ことば」と「社会化」の関係を想像していただくことができるでしょう。たとえば「ダウンロード」といった「ことば」によってそれをイメージできない人は、IT社会の中では社会化されていないということになります。

 子どもたちの中には、「思いやりをもちなさい」といわれても、この「ダウンロードしなさい」といわれているのと同じように、何のことやらわからない子どももいるというのが、今の子どもたちの現状なのです。そして、パソコンの苦手な人が、意味はわからないけれどただ「ENTERキーを押せばいい」とのみ学ぶように、大人の前でどう振る舞えばよいかのみを要領よく学んで適応している子どもたちがたくさんいるというのが、子どもたちの感情の発達において起こっていることといえるかもしれません。