日誌

2020年9月の記事一覧

感情はどのようにして育つのか?⑧

8 子ども自身が本当の意味で「よい子」に育つことを願うには

子育てには、逆説的なむずかしさがあります。例えば、「怒りをロントロールできる子になるためには、どうすればいいのか」ということについての理想的な育て方があるとします。「攻撃的なテレビやビデオは見せない、ゲームはせいぜい30分でやめさせる、食事は自然食でジャンクフードは食べさせない、早寝早起き、睡眠は十分にとる、夫婦は仲良く、父親も子育てに参加する」など。これらのひとつひとつはそのとおり大事な努力目標です。ところが、このように完璧に子どもを育てようと思ったとたんに、それはここまで述べてきたような「理想的な子どもを求める子育て」になってしまうという逆説に陥ってしまうのです。これらを完璧にこなして、親の言うとおりに子どもが従って育ったとしたら、子どもの感情の発達は支障をきたすことになってしまいます。理想を求めて子育てをするときに起こってくる問題は、「子どもの顔」を見ていないということです。

「子どもの顔」には、身体の中を流れる感情のエネルギーが表出されています。子どもの身体からあふれてくる感情の非言語的表出を見ていれば、おのずと親の理想どおりにことは進まなくなります。私たちが子どもの顔、子どもの身体からあふれてくるものをしっかりと見て、それに応じて親として感じる動物的な勘のようなものに自信をもってかかわっていくことができれば、子育てはそれほど困難なものではないはずです。

子どもは「自己愛」を映し出す存在であり、子どもを育てるということは「自分を愛する」という大きな課題をつきつけてくるプロセスでもあると言われています。ですから、「自分を愛する」ということについて大きな不安を抱えている場合や、自分の中に切り捨ててしまいたいくらい嫌だと思っている部分があるような場合には、子どものネガティヴな感情にふれると、不快な感情がひっぱり出されてきてしまいます。自分の中の弱さやだめなところも含めて自分を受け入れている感じ(いわゆる自己受容感)を確かなものとして持てていると、子どもが自分の理想を満たしてくれる存在ではなかったとしても、子どもと自分との距離を適度にたもつことができます。ある意味、子育ては理想を上手にあきらめていくプロセスでもあるわけです。親が上手にあきらめられたとき、子どもは親の理想を実現する存在という条件づきではない、ありのままの存在として認められることになるわけです。

子どもの頃から、他者との比較、評価の中で育てられてきた現代の親世代は、大人になっても、他者からの評価におびえ、根底に自己否定的な思いを抱えており、その不全感を子どもで埋めようとする傾向が強い時代にあると言えます。大切な子どもだから、よい子、理想の子に育てたいという願いをもつことは、当然のことなのですが、その願いの方向が、自分の満たされざる不全感を埋めることに向いているとき、子育ては苦痛の源になってしまいます。子育ては「ほどほど」が一番であり、「よい親」を求めない社会の雰囲気が「ほどほど」を育てていきます。だれもが苦労しながら、子どもを育ててきたということに共感するやさしい社会が、親世代にゆとりを与えてくれるのです。

22日 ナンバーワンよりオンリーワン

22日の魔法の日めくりメッセージです。

ナンバーワンよりオンリーワン ~自分の好きなところを3つ見つけよう!~

自分のことをもっと、好きになりましょう!
沢山、素敵なところがありますよ。
親子で素敵なところを
見つけ合いっこしましょう。
素敵なところを発見することに意味があります。
苦手なことを直そうと思うより
素敵な所を深めましょう。

自分を好きになると自信が持て、
もっと可能性が広がり、もっと素敵になりますよ。


 4連休の最終日です。新型コロナウイルス感染症によるストレスに適応できるようなってきましたか?!親子で過ごす時間が長くなると、子どもたちの素敵なこと(よさや頑張っていること等)を当たり前と思わずに見つめ直すことが求められています。お子さんの素敵なことをいくつあげることができるでしょうか?苦手なことや課題となるところは見つかりやすいものです。マイナスな言葉がけでは子どもも大人もよくありません。子どものやる気や自信を育むためにも、頑張りの過程をほめたり、認めたりして伸ばしてください。プラスの言葉をかけてください。

感情はどのようにして育つのか?⑦

7 親に対して「よい子」であることを強く願うとき

親に対して「よい子」であることを願う場合というのは、反対にこわくて叱れない、叱りたくないという状況を生み出します。この場合、自分自身の前で子どもが「よい子」の顔を見せてくれていれば、子育てはとても楽しいのですが、自分の目の前で子どもが泣いたり、ぐずぐずしたり、言うことをきかなかったりすると、とても大きな不安が喚起されます。無意識的にですが、子どもが自分の言うことをきかないと、自分自身を否定されているような不安におそわれるのです。ですから、子どもがぐずぐず言わないように、「いつもにこにこ明るい子」でいてくれるように、子どもの機嫌をとりがちになります。子どもとの葛藤を恐れているのです。一見、とても民主的で対等な友だち親子であるようにうつります。親の前で「いつもにこにこ明るい子」である子どもは、親を癒す役割を担うことによって、愛されるという立場におかれることになります。子どもは親を大好きですから、親が不安にならないように、親を満足させることのできる自分を演出するようになります。

この関係は、たとえが悪いですがある意味、ペットとの関係に似ています。ペットは飼い主を癒す役割をもつものとして愛されます。飼い主の前でどのような顔を見せれば愛されるかをペットも学習していくわけですが、人間の子どももこのような関係の中では、同じことが起こります。子どもは身体的な存在ですから、身体からあふれてくるエネルギーをぶつけて、ぐずり、泣き、すねて、反抗します。そのようなネガティヴな感情をぶつけられると、親自身もとても不快な気持ちになります。他者からみて「よい子」であることを願っている場合には、叱りすぎてしまうのですが、親の前で「よい子」でいてほしいと強く願う親の場合には、不安や不快な気持ちにさせられること自体を避けようとします。

子育てによって生じる自分自身の不安や不快を回避することが親にとっては常に重要なので、子どもにトラブルが起こったときには、苦情を言う傾向が強くなります。「宿題を出さないでください」「あの子と席を離してください」「〇〇係にはさせないでください」などという学校への要求は、そのことをめぐって、子どもが家でネガティヴな感情を表出し、それにより親が不安や不快を感じ、その結果、自分自身の不安や不快を回避するためには、先生にお願いしようという発想になっている場合が多くあります。親の心の中にわきあがってくる不安や不快な感情を、親自身が受け止めることができないのは、叱りすぎる場合と同様に、親自身が育ってきたプロセスと関係があります。

子どもが親の理想を満たしてくれているうちは、親子ともに特に問題を感じないかもしれません。ところが、親の前で「よい子」でいてくれることのみをきわめて強く願っている場合には、成長とともに子どもが親を癒す役割をとれなくなったときに、精神的に捨てられてしまうということも起こります。親に不快な気持ちを引き起こす子どもは、かかわりをもたないという形で捨てられ、情緒的に一線をひかれてしまうということが起こります。援助交際やプチ家出などの問題に見られる民主的に放任された親子の関係は、まさにそのことを意味しています。子どもたちは居場所をもとめてさまよい続けます。

21日 会話は子育てのキーワード

21日の魔法の日めくりメッセージです。

会話は子育てのキーワード ~ゆったり、お喋り、楽しもう!~

お喋りは楽しいものです。
その中で、子どもの事をもっと深く知る、
親の事をもっと知ってもらう。
楽しい会話の中で、認め合う関係、
喜びも悲しみも共有できる関係、
相談し合う関係が作れます。

毎日が忙しい日々。
すこし、ゆったり、のんびりと会話を楽しみましょう。

 4連休の3日目です。話を聴いてもらえたという安心感がよりよい関係性を築きます。一緒にお風呂の中での会話はゆったりした中で楽しむことができます。会話の中で大切にしたい言葉は、「ありがとう」と「うれしい」などです。「〇〇のお手伝いをしてくれて、ありがとう!」「お母さんはうれしかったよ!」「お父さんは〇〇したんだって聞いたよ。ありがとう!」子どもにエネルギーを与える言葉です。

感情はどのようにして育つのか?⑥

6 他者から見て「よい子」であることを強く願うとき

他者から見て「よい子」であることを強く願っている場合、それが実現できないときに、親自身にとっても大きな不安が喚起され、どうしても「叱らずにはいられない」という状態に陥ってしまいます。子どもが「みんなと同じ」「よい子」でないと、親の中にとてつもなく大きな不安が喚起され、その不安は、自分が子どもを愛することができなくなるのではないかという不安に通じていきます。なんらかの理由で子どもが「みんなと同じ」ではなくなったとき、必死で叱ることを通して子どもに「みんなと同じ」であることを要求してしまいます。「みんなと同じ」でなければ、他者からそれなりに「よい子」と見てもらえず、「だめな親」という自分に対する評価として返ってくることへの怖れが、子どもを叱るという行為に突き動かしてしまいます。親の愛情の裏返しとして、虐待的関係に陥ってしまうと言われています。

たとえば、子どもが幼稚園や保育園で、順番を守って並ぶとか、食事の時間が終わるまで席についているとか、きちんとした子どもなら「ふつうに」できることができないということで、幼稚園や保育園の先生から、「お宅のお子さんはみんなと同じようにできない」ということを伝えられると、他者から見て「よい子」であることを願っている親はとてつもない不安におそわれ、子どもを必死に叱り、早くきちんとしつけなければとあせることになります。朝、親からスムーズに離れられず、ぐずぐず泣くということが毎日続くと、他の子どものようにどうして「ふつうに」できないのだろうと、子どもに対して怒りの気持ちがわいてきてしまいます。

また、自分を基準にして「ふつう」と思っていると、子どもが「ふつうではない」と思いこんだときに、他者から見て「よい子」には見えないような気がして、不安におそわれます。そして早くきちんとしつけなくてはとあせり、叱ることが日常になってしまいます。「ふつうお兄ちゃんだったら、弟にゆずることができるでしょう!」「ふつう、二年生にもなれば、ひとりでお留守番できるでしょう!」

 「みんなと同じ」や「ふつう」についての認識は、多くの場合、私たち親の世代が自分の親からできてあたりまえと求められ、必死に実現しようとがんばってきたことなのです。他者から見て「よい子」であることを強く願う親は、自分自身も幼いころから、ずっと他者から見て「よい子」として育ってきていることが多いものです。他者から見て「よい子」であるということは、親自身も他者から見て「よい親」だと見られるということと直結しています。子育てに困難が伴うのは、常にパラレルに自分がどう育てられたかという記憶がよみがえり、子どものときの自分自身の辛さが再現されてしまうからなのです。